(改)4月1日の「MICK」
錦糸町の南口滔々と光るネオン街を抜けると、そのバーはある。
店の前に立ってみると、ここがいかに絶妙の場所にあるか分かる。
1ブッロク手前には虹色に輝くネオンの看板が立ち並ぶ繁華街があるが、
一つ通りを隔てれば閑静とは言えないまでも、マンションが立ち並ぶ住宅街がある。
まるで、通りを隔てれば、静と動の境界線でのようだ。
その静の一角に、控えめな店の看板と、人ひとりがやっと通れるドアが待ち構えている。
店に入ると、夜の闇の白さに慣れた目に、優しいほのかな間接証明が迎えてくれる。
違和感はなく、木製のカウンターの木目が僅かばかり見えるのが、
どことなくその光の調和をかもし出している。
かと言って、暗いと言うわけでもなく、
2・3歩カツカツと革靴の底を鳴らし、席に着けば思いのほかその木目も鮮明に見えてくる。
カウンター越しに見えるお酒の棚の光のせいかも知れない。
すると、さりげなくマスターが、いらっしゃいませ、と声をかけてくれる。
何千回、何万回繰り返したであろうそのセリフは、どことなく心地いい。
数年前、彼が訪れた。
名は『MICK』と言う。キャップを斜めに被り、ヘッドフォンからシャカシャカと音を漏らしながら、店に入ってきた。
カウンターの真ん中に彼は座った。新規のお客ならば大抵はマスターに席を案内されるのを待つわけだが、
彼はそうしなかった。
徐にポケットから携帯や小型のスピーカーを取り出した。
もう片方のポケットからは、キューバ産のシガレットを3箱取り出した。
すると、瞬く間にカウンターは彼の私物の山になった。
随分と野暮だなとマスターは思ったが、彼は彼なりにその乱雑の中にこだわりがあるのだろうか、
手元にはシガレットを3箱重ねている。また、そのさらに手元の方に灰皿を置いている。
注意してみてみると、シガレットや携帯やスピーカーなどは、同じ向きに置いてある。
その乱雑に見えるのは、斜めに被ったキャップとその猫背のせいかもしれない。
「マスター」
と彼は呼びかけた。しゃがれた声の割には、よく透き通る声だった。
「ジン&ビターズを」
ビターズをリンスし、ロックグラスに大ぶりの氷を放り込み、マスターはその上からジンを注いだ。
バースプーンでかき混ぜ、グラスを支える手にその冷たさを感じたら出し時だ。
かき混ぜる時のバースプーンと氷とグラスとの音のない音が、醍醐味でもあった。
コースターの上に『ジン&ビターズ』を乗せると、氷を2回ほど指で回して一口飲んだ。
すると、脇に座っていた常連のkさんが彼に興味を持ち、話しかけた。
「よく来られるんですか」
「ずっとアメリカで仕事をしてまして、日本は久しぶりなんです」
とMICKは微笑んだ。
無造作と言うか野暮と言うべきか、マスターが感じたその第一印象はそのせいかと、いささか腑に落ちた。
その調子で、アメリカでのその仕事の話をし始めた。
話が進んできて分かったことだが、彼はディズニーのキャラクターをデザインし、その版権を持っているという。
有名な所だと『リロ&スティッチ』は自分がデザインしたと言う。
話しかけた常連のkさんがたまたまディズニー好きということもあり、話が盛り上がった。
鞄からその原画も取り出してマスターと常連のkさんと見せ合った。
空のロックグラスに余った氷を指で回しているのを、常連のkさんが見ると、
「ジン&ビターズを彼に」
と注文した。
そこにもう一人ディズニー好きの常連さんも加わり、3杯目をおごってもらい、さらに後から来た常連さんにも。
瞬く間に彼は合計4杯もおごってもらい上機嫌であった。
話が少し大げさな感も否めなかったが、ここは酒の席と割り切りマスターはちゃちゃも入れず、
グラスを拭いていた。カウンターの4人でその話題で盛り上がっている所で、
マスターそれぞれの常連さんの伝票をつけ様とした。
そこで、アッとマスターは思った。
伝票の日付をみると、今日は4月1日。エイプリルフールである。
常連さんたちの盛り上がりとはよそに、マスターは冷静にみんなやられたなと苦笑しながら、伝票を付けた。
からくりが分かってしまったからといって、不思議とイヤな感じがしなかった。
むしろカウンターの盛り上がりが滑稽にも見え、こういう酒の場もあるのだと微笑ましくもあった。
何かお作りしましょうかとからかってやりたい気持ちにもなったが、
マスターはあえてそれをせず傍観者に徹した。
どれだけ時間が経っただろうか。あまりにも上機嫌になったMICKは、時間が経つのすら忘れていた。
そろそろ帰ろうと、
「マスターお会計」
と言い、席を立ち彼はレジの方に向かった。
ニコニコとしながら財布を取り出し待ち構えている彼に向かって、
マスターは言った。
「今はもう4月2日ですよ」
MICKはアメリカ帰りを気取ったのだろうか、お手上げのジェスチャーで両手を挙げ、
両肩を心持ち上げて苦笑した。
レジの上の壁掛け時計の針は12時を回っていた。
顔を横に振り一つフーっと息をつき、常連さん達にご馳走してもらった分の『ジン&ビターズ』の会計を済ました。
いいんですか、とマスターは彼に問うたが、手を横に振って構わないと言った。
ご馳走さまと言って、MICKはその猫背を一層すぼめて店を出て行った。
彼が座っていた席のカウンターにはまだ吸いかけたシガレットがあった。
それを徐に消し、グラスなどを片付け、カウンターを拭いた。
奥の厨房に空グラスを持っていくと、カウンターの常連さん達の声が聞こえた。
「今日は4月1日じゃない」
「あっ、エイプリルフール!」
「やられた!」
とようやく気づいた様であった。
今までの盛り上がりが一瞬にして冷めたのが、声越しにマスターにも分かった。
「マスターやられたよ!」
と常連のkさんが大きな声で言った。
そうですねと、マスターはレジの時計の針を23時50分に戻した。